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くのや歳時記 「襟」

銀座で70年以上商いに携わり和装と銀座の街をこよなく愛した、くのや7代目当主 菊地泰司が『銀座百点』で1979年から1年間連載した「くのや歳時記」を掲載いたします。季節毎の日本の習慣や当時の銀座の点景を切り取ったエッセイです。

「襟」

凡そ衣服あれば其の中に襟あるを知る国の東西を問わず裁縫の形式を論ぜず衣服中の最重要なるものなり、襟正しからざれば其の人の風儀を損ず、襟の汚れたるは其の人の品格を害す、されば襟は服飾中の重要部分なりと、業界老舗発行の昔の商誌に書かれており、和装における襟の重要さを指摘している。

なるほど、支那服の詰襟では胸の部分がはなはだ間が抜けてしまうので、刺繍を施したり、また、古代わが国の服装にも曲玉や管玉で首飾りをして胸元の美化に努めている。男性が洋服でネクタイを用いたり女性がスカーフを首に巻くのは、胸元、襟元に気を配ってのこと だと思う。

着物と肌との唯一の接点を埋める重要な半襟が、衣服の一部として独立して商われたのは寛政のころで、当時は織耳もなければ切口のかがりもなく広幅の布に鋏を入れた程度の物 といわれ、現在の半襟の型に織られたのは明治三十一年京羽縮緬と称した三幅取りの色耳入りの縮緬半襟地に始まるそうだ。ちょうどそのころ優秀な糊や染料が開発され友禅染めの手法が著しく発達し、優れた友禅屋と才覚非凡な図案家の輩出とあいまって後世に伝わるよ うな半襟が続々と創られた。

東京の表玄関がまだ新橋駅のころであり、江戸時代の町火消しから二頭立ての馬がものすごい勢いで走って来る蒸気ポンプに変わったころのことだ。威勢のいい「魚河岸」も日本橋と江戸橋の間にあって、舟の出入りは繁多を極めたころで、これと関連し下町調の模様を取リ入れた襟がかなり多く見られた。算盤玉、豆絞り、角つなぎ、千社札などのモチーフがそれだ。蜻蛉の模様が全盛を極めたのは日露戦争の勝利に酔う翌年ごろのことである。

友禅 摺り 摺箔 絞り 刺繍など、世の中の平和とともにあらゆる手法を駆使し時の文化流行を巧みに半襟に取り入れた作品がすばらしい職人の手によって数多く生まれた。

現在のようにほとんどが塩瀬の白襟というのでなく、生地も縮緬、鶉、絹縮味(きんち)からモスリンの友禅襟、絹天、綿の小町襟、瓦斯糸の紋シルク襟、一幅で織った杢目のあるリボン襟など、種類も豊富に懐かしく想い出される。

伊達襟と称する無地の重ね襟や絞りの襟、金銀箔押しのもの、あるいは小紋の柄物など変わった襟がわずかの着物ファンに愛用されてきた昨今だが、季節・年齢・場所に従い、それぞれの雰囲気に合わせ、洋服の感覚とは異った和装独特の趣味嗜好を取り入れた襟元のおしゃれをもっともっと楽しんでいただくときにきているような気がする。

 

出典 : 銀座くのや七代目 菊地 泰司 「銀座百点」

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